2006年7月20日 (木)

高坂先生の著作を読んで・・・

 ■五百旗頭先生が、次期防大校長に・・・。素晴らしいです。

 ■修論とは直接的には関係ないのであるが、現時点で高坂先生の著作をざっと読んで感じたことをエッセイ風にまとめてみた。コメントくれたらうれしいっす。

 

「不完全性」への愛~可能性の源泉としての不完全さ

日本における国際政治学、もしくは国際関係論に関する書物の中で版を重ね続ける、数少ないロングセラーの一つが高坂正尭教授の『国際政治~恐怖と希望』である。本書において国家を「力・利益・価値」の体系であると規定したことは、その枠組みの普遍性と不変性ゆえにあまりに有名である。だが、私がそれ以上に印象に残ったことは、高坂教授の知的強靭さであり、何よりも人間的な「強さ」であった。

解きがたい問題に直面して、悩む。安易な「解答」を求めはしない。「明快さ」の陥穽にはまらない知的強靭さの何とすさまじいことか。例外を認めぬ悪しき原理主義に陥ってはならない。ジレンマから逃げず、相対化と絶対化の間に厳然と屹立する一人の人間の力強さを、人は『国際政治』のなかで感じるであろう。

高坂教授が「強さ」を持ちえた理由は、逆説的にも人間の「弱さ」を認識していたからではないだろうか。人間の「弱さ」、より正確に言えばそれを生み出す人間の「不完全性」を教授は直視していた。人間の不完全さを乗り越えるべき対象とは見ず、またそこから逃げもしない。人間が不完全であるからこそ、多種多様なドラマが生み出され、歴史が刻まれてきた。そこには筆舌に尽くしがたい悲劇もあったが、それ以上に人間の活力があり、可能性があり、そして進歩があった。人間の不完全さは、時として重大な錯誤を犯し悲劇を招く原因ではある。だが、同時に多様な可能性の源泉でもあるのだ。そこに膨大な歴史の教訓が活かされ、政治の技術が作用する余地がある。高坂教授は、人間の不完全さを自然なものと見たし、むしろ望ましいものとさえ見ていたのではなかろうか。誤解を恐れずに言えば、人間の不完全さへの「愛」さえもがあったように思えてならないのである。

 高坂教授が何よりも忌避したのは、恐らくは単純主義者であり原理主義者であり、そして自覚なき偽善であったと思われる。このことは高坂教授が人間の不完全さを直視していたことを如実に示していようし、もしくは改めてそれを意識的に確認するまでもなく当たり前のこととして「体得」していたことを裏書きしている。人間は不完全であるがゆえに、現実世界においては完全無欠な「答え」は無いし、また完全な意見の一致もない。だから我々は思考停止に陥って「不断の思考」を止めてはならないし、また異なる意見間での「対話」を止めてはならない。その時、単純主義者と原理主義者は大きな障害として立ちはだかるのである。

 両者は共に「例外」を認めず、独断に陥りやすく、知的思考において頽廃の兆を示しやすい。より重要なこととして彼らは「悩まない」のである。それは彼らが人間の完全性が支配する世界(ユートピア)への到達を直線的に想定し、その世界像として自らが持つ「答え」が唯一であり、完全であると思い込んでいるからである。一方、高坂教授は「但し書きの学者」であった。どのような物事においても、提言や「答え」には必ず例外や留保の「但し書き」をつけた。たとえば吉田茂の評価においても、その功罪を明らかにしたし、発案者である吉田がとった様々な「但し書き」つきの政策がエピゴーネン(模倣者)たちによって但し書き無しに体制化されることの危うさを指摘していたのである。学術的戦術として、批判の予防線を張る為に、自らの主張に種々の例外規定を盛り込むことは特に珍しいことではない。高坂教授が特異な点は、そのような例外や但し書きをおそらくは「本能」としてつけていたことである。そこに彼の偉大さの一端を垣間見ることができる。

 歴史を愛し、そこから様々な教訓を得ていた高坂教授は物事の教条化・固定化を本能的に忌避したのである。「成功のなかに失敗の種子は胚胎している」というアフォリズムはそこから当然導かれるものであった。人間の不完全性ゆえの成功と失敗という「可能性」を直視し続けたのであって、その可能性を「つぶす」、もしくはその可能性から「逃げる」姿勢をとる人々を教授は批判し続けた。そして彼らこそが、単純主義者であり原理主義者であり、完全主義者であったのである。たとえば、「現実主義者の平和論」で論壇デビューした高坂教授は一般的には現実主義者として位置づけられているが、彼は真の意味での理想主義者であり現実主義者であった。氏はその論文で理想主義者と現実主義者との間の「いきいきとした対話」を求めたのであり、単純主義者としての理想主義と現実主義、双方を批判したのである。いうなれば高坂教授は既に自身の内において可能な限りの「いきいきとした対話」を実践していたのであって、大胆な構想を慎重な政治技術によって実現していくという意味で真の理想主義者であり、現実主義者であった。それに加えて高坂教授は反対者たちとの「対話」を重視し続けた。学問の進歩は自由な「対話」によってこそ保障され得るのであり、異なる意見とそれを述べる人へ敬意を持って「論戦」を呼びかけ続けたのである。対話を大切にする姿勢は、自らの考えや主張の不完全さへの謙虚な認識を前提としていることは言うまでもない。たとえ、相手との価値観や認識に決定的な断絶があり、論戦相手が単純主義者であったとしても、「それでも私(※高坂)はあなたの役割を否定しない」と語りかけたのであった。

 高坂が批判した理想主義(ユートピアニズム)と現実主義(シニシズム)は共に逆方向への「逃げ」のアプローチであった。すなわち、理想主義者は「可能性」としての悪の危険性を直視せずに、直線的に完全無欠の善=「素晴らしき新世界」を目指しており、他方で現実主義者は「可能性」としての悪を過大評価し、それへの準備はするが、それ以上は特になにもせず座視・傍観する、つまりは善の方向に可能性を導く積極さを見せないのである。それに対して高坂は、自身の仕事の意味を、人間の不完全性に由来する可能性が悪の方向に発現するのを最小限に食い止め、他方で可能性を最大限良き方向に向かわせること、と自覚していたのではないだろうか。現実と理想の乖離に苦しみつつも、それでも両者の架橋を目指し、より小さな悪(lesser-evil)のもとで改善を積み重ねていく能動的な姿勢の人間に、高坂教授は最大限の共感を示したのである。それがメッテルニヒであり、ケナンであり、そしてチェーホフであった。

 また、拙速な「完全さ」を志向する態度を高坂教授は戒め続けた。そもそも人間性からして、現実世界においては「完全性」の実現が不可能であるという根本理解に加えて、完全さを目指すことは「可能性」とそれが生み出す「多様性」を抑圧することにつながるという怖さがあったのであり、完全さを目指す過程での不毛な騒々しさや熾烈さを教授は憂慮したのである。したがって高坂教授は、人間の豊穣なる歴史から生み出されてきた「叡智」を愛した。たとえ問題解決にはつながらなくとも、ともかくも現状を凍結するような妥協・暫定協定や、国家間の争いが破滅的結果につながることを防ぐ勢力均衡、国際社会が不必要に混乱しないための主権原則など、可能性の技術としての政治術(art)、政治的かしこさを大切にしたのであった。正と悪の原理主義的十字軍戦争や過去への終わることなき糾弾は、騒々しさと不毛な結果の可能性から、教授の「趣味」には合わないものだったのである。その嫌悪感の背景に人間の不完全さへの理解があったと考えることは決して的外れではあるまい。

 

 高坂教授は人間の不完全さから「逃げ」なかったし、それを愛し、さらには「楽しむ」という境地にまで達していたかもしれない。一見あまりに世知に長けた氏の数々の流麗な文章は、それなしには生まれえなかったであろう。不完全さゆえの可能性は、いい方向に転がれば、悪い方向にも転がりうる。したがって成功は突如として失敗の原因になりうるのであり、また過剰な美徳は悪徳に容易に変化しうる。それらはコインの表裏なのである。「曖昧さ」はその心地よさに安住し、思考停止になれば堕落するが、他方で曖昧さゆえの可能性の幅と機会に苦闘し続ければ、そこから生み出されるものは限りなく大きい。不幸にも憲法九条の「曖昧さ」は戦後日本人にとって前者の悪徳に転化したのであり、湾岸戦争時における日本人の自覚なき偽善に高坂教授の怒りは爆発したのであった。

 今日、憲法改正や教育基本法改正の問題は喧しいが、重要なことは両者には「答え」が無いということである。軍事力も愛国心もその「必要性」と「危険性」を常に考え続けることが大切なのであって、改正された・されなかったことから思考停止に陥ることは最悪である。我々一般人は人間の不完全さを愛することはおそらくはできないであろうし、いわんや楽しむなどという芸当はとてもできないであろう。だが、少なくとも不完全さを直視することだけはできるのではないか。そこから人間の限りない豊かな可能性が生まれてくるのであり、それが求める力強い主体性を我々に厳しく要請するのである。

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2006年6月25日 (日)

白眼視戦略・・・。

 ■『正論』や『諸君』などでは、かなり以前から展開されていた議論なり主張であったが、(そう称することが適切であるか否かは別として)「中国の世界的な反日包囲網活動・情報戦」、である。

  現代外交は、公開外交であり、良くも悪くも世論の動きに敏感たらざるを得ない。より重要なこととして、様々な側面で「世界化」した今日においては、注意すべき「世論」は自国民と相手国民だけでなく、世界の世論であり、第三者的世論なのである。簡潔に言うならば、今日の外交活動においてはその国家の「イメージ」を巡る争いという側面がより大きくなりつつある。

  イメージは「単純」であり、時として「コード化」しうるときがある。そしてその単純さゆえに、イメージは根強い影響を持つのである。特に、情報過多時代で時間に追われる一般の人々は、物事を多面的に考察する余裕はなく、どうしてもイメージに依存せざるを得ない。政策決定者や学者などの専門家は、相手国の良き面と悪い面を把握する余裕がある。だが、彼らが外交を運営していくために不可欠な世論は、概して物事をイメージで把握するものなのである。そこに現代外交の基本的困難性がある。

  したがって、国際社会における「イメージ」は極めて重要である。そして、現代の超大国であり、ある意味でその国内に一つの世界を構成しているともいえるアメリカ世論の支持をいかに得るかは、20世紀において多くの国家にとっての極めて重要な課題であった。今日、中国系の諸団体があの戦争における日本の残虐行為をことさらに喧伝し(ex.南京事件のPR)、「反日包囲網」とは言わないでも、日本に不利な言論環境、イメージを作ろうとしていることは、どうやら事実のようである。それに対し、日本のPR活動や外交当局の動き、対抗策は緩慢であり、そこに上記雑誌の諸論考の批判が集中している。

  確かに、問題をこのまま放っておくこと、すなわち不作為のままで過ごすことは最悪である。たとえ、過度に誇張されたイメージでもそれが批判なく流布した場合、それは極めて強いイメージ、「ステレオタイプ」として残る。あまりにおかしな中国の宣伝活動には粛々と反論・論拠を提示しておけばよい。

  だが、大切なことは「同じ土俵」に乗って中国と勝負、もしくは非難合戦をしてはならないということだ。というのも、日本には圧倒的な「理」と「分」がある。それは何よりも戦後日本が実に60年以上にわたって歩み続けてきた「平和的経済主義発展路線」なのである。我々はそれを背景とした「信頼」が確固としてある。世界的に見た場合、日本の信頼性は高いのである。いくら中国が日本の過去を叫び続けたとしても、我々には60年の重みがあり、そして現在がある。第二次大戦後の中国の歩みと今日の諸問題に鑑みるならば、日本には明らかな立場の優位があるのである。

  今をより良く生きる。そのあまりに平凡な行動が、中国、もしくは韓国の時として常軌を逸した反日活動に対する強靭な盾となろう。すなわち、世界各国が中韓の反日言説を、根拠無きものとして「白眼視」する環境をつくりだしていくことこそが、我々の最も基本的戦略であるべきなのである。

  その意味で、靖国問題はやはり「問題」である。この問題は次に考えたい。

  

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2006年6月23日 (金)

「夢」はあるよ。

 ■宇多田ヒカルはやっぱり日本の歌姫っす♪「This is Love」最高っす。リピート魔再開です。映画キャシャーンの主題歌の頃からちょっとついていけなくなってたけど、「Keep Tryin'」からは、いいっす!

 ■目が痛い、というか重い。疲れ目だと思っていたけれども、二日経っても違和感が収まらない。何でも早め、早めにこしたことはない。明日、眼科に行ってきます。

  そんなに目を酷使しているつもりは無いのだが、やっぱり疲れてるんかな。ブルーベリーは常用しているのだが。読書に加えて、映画鑑賞が余計な負担なのかも知れない。昨年の大ヒット作「Always 三丁目の夕日」を早速レンタルで見た。

  音楽がいいね。映画の内容もさることながら、いい音楽とのシナジーが生じれば、見ている者へのインパクトは数倍以上にもなると思われる。そんなわけで宮崎駿と久石譲の「出会い」は、「奇跡」なのです。「音楽」から映画の「場面」・「内容」を想起できる映画作品が、一体どれだけあるだろうか。

  話がそれた。「Always 三丁目の夕日」は、良かったと思う。それにしても不思議なのは、なぜ僕らの世代までもが「懐かしさ」を感じるのだろうか。インテリアにおける、ミッドセンチュリーブーム。そして、映画「クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲」や浦沢直樹の漫画「20世紀少年」などなど。数え上げればきりが無い、「昭和ブーム」。様々な論者が様々な場所で、このような現象を論じているが(例えば、切通理作「昭和ブームを支えるヴァーチャルな懐かしさ」『中央公論』7月号、など)、少なくとも僕にとってははっきりしたことはわからないし、別にわからなくてもよい。

  ただ重要なことは、これらのブームを悪い意味での「懐古趣味」に終わらせては最悪である、ということだ。「Always 三丁目の夕日」の予報のナレーションで「あの頃は夢があった」というが、それに比べて今は・・・、という感想では何とも情けない。確かに、60年代~の池田政権下における所得倍増計画、そして高度成長期は国民が一丸となって、国家的目標である「経済発展」に邁進した時期であった。一つの目標に全力を傾け、一心不乱となれるということは、ある意味で「幸せ」である。様々な付随的問題を考えずに、一つの目標のみに向かえる環境はあまりない。それは人の人生でも同じである。これをしたいと思っても、あれとそれを等閑にして「これ」に日常生活の全てをつぎこむことはやはり難しい。我々は色々なことを考えねばならないのである。その意味で、ともかくも経済発展という、批判のしようがない一大目標を国民が共有できたことは「幸せ」であった。

  しかし、我々はすでにそれを達成したのである。その意味で、ある一時期の国民の共通目標であった経済発展という「夢」はなくなったのである。だが、忘れてはならないのは、それが「ある一時期」の「夢」であったということだ。すなわち、経済発展が全史における全人類、全国家の「夢」ではない。それが重要な「目標」であることは事実だが、やはり人は「生きる為に食うのであって、食うために生きるのではない」のである。したがって、今を生きる我々は経済発展の「遺産」を維持しながら、それを活用して、新たな「夢」を紡ぐという、困難ではあるが、素晴らしい世代に属しているとはいえまいか。

  日本にとっての新たな「夢」とは何か。それは我々の世代が自ら歩みつつ答えていくべき問題なのである。そして、個人的な意見としては「目標」は繁栄の維持でいいと思う。我々が紡ぐべきは「手段」としての「夢」ではないだろうか。日本の繁栄を、様々な可能性と創造性に富む「手段」で維持・実現してゆくのである。

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2006年6月 7日 (水)

「成熟」と「覚悟」が問われる課題群

 ■何を気が狂ったのか、間違って『文藝春秋』の六月号を再び買ってしまった。欲しい方、差し上げますのでご一報ください。

 ■夜、ランニングしてたら道端に男性が「倒れていた」。身体の不調で倒れていたら一大事なので、一応声をかけたり、体をゆすってみたが、反応なし。身体は冷たいし、一瞬ドキッとしたが、顔を近づけたら、静かな「寝息」と酒の匂いが・・・。

 40分ほど走り、Uターンして戻ってきたら、なんとまだ寝とるやないですか!六月といっても、夜は寒いので、強引に叩いて起こした。フラフラで歩いていったが大丈夫かな、あのおっちゃん。まあ途中で立ちションしてたから、アルコールは次第に抜けていくと思う。

 ■憲法改正論議、つまるところは憲法九条を巡る議論や、共謀罪問題、そして愛国心を巡る議論の高まり。これらの問題・課題群は、ある共通の「性質」を持っているように思われる。それは、我々日本人自身の「成熟」と「覚悟」が正面から問われる問題群であるということだ。

 これらの問題に、すっきりした「答え」は無い。しかし、そもそも政治という営み自体が「答え」を持っていない。政治に「教科書」は無いのである。それゆえ、人々は考え続ける。それゆえ、古典は古典としての価値を持ち続けるのであろう。少なくとも、現時点では最も「まし」な制度である、民主主義にしても、それは衆愚政治に堕する可能性を常に秘めている。だからといって、「エリート」による政治を極限まで突き詰めれば、それは寡頭政や独裁になりかねない。要は「バランス」なのであって、人々は不断の思考とともに、主体性をもって政府の行動を「監視」するとと共に「支える」ことが求められる。

 戦争と平和、軍事と外交を巡る問題も同様である。どちらか「一方」に偏して「思考停止」に陥るのではなく、常に両者への眼差しを忘れない。今後、我々に求められるのは九条を改正した「後」に、いかにうまく、健全に「軍事力」をマネージするかということである。全ての手段を持ちつつも、それを使わない「成熟」と「覚悟」を、「強靭さ」を戦後日本人は備えてきたか。

 共謀罪にしても、愛国心にしても求められる問題の「質」は変わらない。現代の国家にとって、両者は疑いなく「必要」なのである。しかし、「必要性」のみを主張すれば、そこには「思考停止」という「原理主義」が頭をもたげてくる。大切なことは「必要性」と共にその「危険性」を認識することである。

 何事も「教条化」は悲劇である。それは「楽」であるが、大きな惨劇をもたらすであろう。さて、戦後日本人は「必要性」と「危険性」の両者のバランスに対する「成熟」さを身につけてきたであろうか。僕自身は、その問いに対して、それなりの自信がある。とは言え、一方で現実には法律を杓子定規に適用する事態も見られる。個人情報保護法を巡る幾多の悲喜劇はその最たる例であろう。そこに少し不安も感じる。

 これらの問題に対する、今後の対応如何は、まさに日本人の「成熟」と「覚悟」への一つの試金石となろう。

 マキャベリは次のように書いた。「危機に際し、独裁政に退避できない共和国は、深刻な時機の到来とともにほろびさるのがつねである。」

 日本は、危機が去った時、「独裁者」が去り、再び「共和政」に復帰する「復元作用」・「自浄作用」を持つ国であろうか。これまでは「独裁政」に退避できない国であった。しかし、法整備を含めた安全保障政策の質的前進で、危機時において我々は「独裁政」に退避できる国となった。次は、仮に「独裁政」に移行した場合、その後に通常に復帰できるか否かである。そのようなテストケースが起こらないことをまずは祈るが、この問題は常に頭のどこかに入れておくべきであろう。

 

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2006年5月13日 (土)

転向結構コケッコー

 ■「白いんげんダイエット」が話題である。TBSの番組で紹介されたダイエット方法それ自体に加えて、実行した人の中に下痢などで体調を崩して問題となった面もあるからだ。

 それにしても「テレビの力」はすさまじい。楽天市場のランキングでは、上位を「白いんげん」が独占である。そして、我が家における「テレビの力」もまたそれに勝るとも劣らない。「思いっきりテレビ」で紹介された食材は、かなりの確率で翌日の夕飯に登場する。「ためしてガッテン」と「あるある大辞典Ⅱ」の放映内容も、食卓にかなり反映される。

 しかし、問題は長続きしない点だ。寒天ダイエットの残滓として、業務用粉寒天の袋が台所の隅で眠っている。いずれにしろ、そもそも食材「それ自体」に問題などがあるわけではないことを、家族には理解してもらいたい。どんな食材も、それぞれの長所なり効能を持っていて当然なのだ。それを加工なりすることで、体に悪い面が出てくるだけである。問題は「程度」なのである。何事もやりすぎは、体に悪い。

 ■わが国においては、「転向」という言葉は否定的な響きを持って語られることが多い。思想なり信念なりを貫くこと、それ自体に一定の評価が与えられるのである。

 しかしながら、「転向」を感情的に否定するのは百害あって一利無しである。それは思考の硬直性をもたらす。自己の立場なりを依怙地に堅持することで、そもそもの目的を忘れかねない。転向、結構ではないか。むしろ、意見をその都度柔軟に変えることは「不断の思考」を裏付けている点で好ましい。

 ただし、重要なことは自らの意見・主張を変える「理由」をきちんと説明することである。また、自分の頭で考え、悩み、呻吟した結果として、意見を変えたか否かである。雰囲気なり、場の「空気」なりで、自分の意見を無原則に変えることは、それを意地になって変えないことよりもさらに見苦しい。それは、ただの「根無草」である。望ましいのは、土に強い根をはりつつも、茎は「しなやかさ」を維持することであろう。つまりは「勁草」である。目的が明確ならば、手段を柔軟に変えることは積極的に評価されてよい。

 僕は、一文で表される「主張」(もちろん、それは極めて重要である)よりも、どのような「理由」で、またどのよう「プロセス」で、その主張が生み出されたのかということを重視したい。ある事象に対しての立場は「賛成」と「反対」の二つしかないかもしれないが、その「理由」は無限である。議論とは、その「理由」を闘わせる舞台に他ならない。その中で、相手の主張の「理由」に大きな示唆を得ることは多い。

 「議論」は「対論」とは異なる。時として強引な理由付けや勢いで、何よりも「勝つ」ことを目的とする「対論」では、相手の主張や論拠に説得されることがあってはならない。だが、実際の場で大切なのは「議論」であろう。目的が共通の時、相手の意見に首肯しうる部分があるならば積極的に評価し、取り入れるべきである。それは勝ち負けの問題ではない。この国に、それだけの思考を行い、意見を持つ人が存在することをむしろ喜ぶぐらいの心を持ちたいと思う。

 「自分と異なる意見と、またそれを主張する人にどれだけ敬意を持てるか否かは、その国の文明度に比例する」とは、僕が尊敬する人の言であるが、常に心に留めたい。その意味で、最近の言論界における議論は明らかに「内向き」になりつつあり、また過度に攻撃的になっていることは残念である。「正論」や「諸君」など、いわゆる保守系の雑誌では「レッテルばり」が盛んである。「親中」や「媚中」、「極左」、時には「売国奴」などという言辞まで飛び出す。

 「レッテル」は最も忌むべきものである。それは相手の意見や立場を精査することなく、イメージで否定するし、何より問題なこととして、意見の「理由」を見ようとしない。一種の思考停止状態である。そこには健全な論戦はあり得ない。相手を「~主義者」などと呼称することは、極力避けるべきである。仮に必要ではあっても、相手を最大限尊重し、また相手の主張を深く理解した上でおこなわねばならない。その点で、僕はY・N教授を最も軽蔑する。彼の言葉は激烈で、無意味なレッテル・レトリックに満ち溢れており、人間性を疑う。

 高坂正尭先生は、自分と異なる意見を常に尊重したし、また相手と議論することで何らかの建設的な共通点を見出そうと呻吟した人であった(粕谷一希『中央公論社と私』)。先生のそういった美徳が最も端的にあらわれているのは、「論戦への招待―戦後は貴方だけのものではない」だと思う。大げさかもしれないが、僕はこれを読んで震えるほどの感動を覚えた。

 先生は、いわゆる進歩主義者の敬意を欠いた激烈な「理由なき告発」を批判しつつも、対話を求める。

 「私はこれらの人々がなにかある重要なものを代表しているように思いますし、それ故、対話を試みることも無意味ではないと考えた」

 独断的な理想をかかげ、知的な頽廃を見せる単純主義者に対して、それでも先生はこう言う。

      「しかし、私は貴方の役割を否定しない。」

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2006年5月12日 (金)

自分の「意見」、「研究」?

 子の曰く、学んで思わざれば則(すなわち)(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)し。 (『論語』巻第一 為政第二 一五)

 「学んでも考えなければ、(ものごとは)はっきりしない。考えても、学ばなければ、(独断におちいって)危険である。」(岩波書店 改訂新訳)

 ■宮崎あおいは、マジでかわいい。劇団ひとりが「化け物みたいにかわいい」と言っていたが、本当にそうである。たまらん(汗)。

 ■散髪に行った、おしゃれ美容室に。中学校時代から行き続けている店である。店に入った途端、「お、その顔じゃあ、まだ(就職)決まってないな♪」と鋭い一言を浴びせられる。苦笑するしかない。その後、髪切ってる間中、就活に関してお話してた。自分のどこかに「甘さ」があったのは事実だ。頑張るぞ。

 ■「太田光の私が総理大臣になったら・・・秘書田中」という番組をやっていた。無意味とは言うまい。衆院議員や学者なども出演している。それでも、口角沫を飛ばして、後には何も残らない番組だ。政治・経済、外交などは専門家や学者など、ある程度の知識なり見識を持った人たちの議論を聞きたい。一般の人々を愚民視しているわけではない。あらゆる場面において、「健全なプロフェッショナリズムは、健全なアマチュアリズムの存在を前提とする。」とは言っても、この番組の床屋談義的雰囲気はいかんとも拭いがたい。

 それよりも、「もののけ姫」である。何回やったら気が済むのか、という批判は置いておいても、やはりはじめの半時間ほどは見てしまう。計六時間の「大作」、「もののけ姫はこうして生まれた」を、今度誰か一緒に見ませんか?

 ■修士論文、である。予定では就職活動を終えて悠々と始める予定だったが、どうも無理なようだ(爆)。

 「論文のテーマが決まったら、半分は終わったようなもの」と学部時代の先生に言われたが、半分真実で半分虚構である気がしてきた。大枠の「テーマ」は決まっても、先行研究・論文の目的・主張、となるとこれからなのだ。「高坂正尭研究」と題して、一時満足していたが、どのような切り口で料理して、いかなる主張を述べていくのかとなると、あまりに広大すぎて眩暈を起こす。湯船に浸かっていても、ランニングをしていても、それを考えている。

 鶏と卵の比喩ではないが、主張とそれを支える事実・論拠の関係を、今さらながら悩む。卒論の時は、「おそらくはこんな感じの主張ができるであろう」と、まずは主張を据えて、次に、半ば「強引」にそれをサポートする歴史的事実を貼り付けていった。卒論レベルはそれでよい。しかし、修論でそれはあまりに強引であろう。思考の「順番」に喘いでいる。

 

 ■この一年、自分は成長したのであろうか。自分の意見を述べているようでも、おそらくはどこかで読み、またはどこかで聞いた「二次情報」なり何なりを自分の言葉で述べ直しているにすぎない。オピニオンリーダーの意見をなぞっているに過ぎないのだ。本当に自分で一から資料を集め、吐きそうになるほど読み込み、考え、そうして生み出された意見・主張というプロセスを、まだ僕は経ていない。だから、漠然たる不安がある。そして、恐らくは、その苦悩のプロセスを経ているか否かが、学部生と院生の「違い」なのではなかろうか。修士論文では、とにかく丁寧に文献を読むことを心がけたいと思っている。極端な言い方をすれば、量よりも質を重視したい。

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